氏    名  川久保 貴 史 (かわくぼ  たかし )

学位論文題目  酸化物修飾した遷移金属単結晶表面に関する研究

論文内容の要旨

 真空中に電子を放出する現象は現在まで産業や研究に広く用いられてきている。例えば,光学顕微鏡よりもミクロな世界を観察できる走査型電子顕微鏡 (SEM)や,半導体産業において使われる電子ビーム描画装置などは,研究や産業において欠くことのできない装置として広く普及している。電子の放出は陰極の性能によるところが大きく,そのため電子ビームを扱う装置の性能向上は陰極の性能向上にかかっている。
 現在広く用いられている陰極としては,針状に加工したタングステンの先端の (100)面をジルコニウムと酸素で修飾した ZrO/W(100)陰極がある。W(100)清浄面の仕事関数は 4.6eVと比較的高いが,その表面を Zrと Oで修飾し ZrO/W(100)面を形成すると仕事関数が 2.7eVまで低下する現象が知られており,ZrO/W(100)陰極はこの現象を用いたものである。仕事関数が低いと陰極から引き出すことができる電流量が増え,陰極の高輝度化に繋がる。W(100)面を Zrと Oで修飾するとなぜその仕事関数が低下するか,そのメカニズムについては完全には解明されていない。しかし,その表面の組成と原子配列の観点から研究が進められてきており,W(100)面上に Zr-O複合体と呼ばれる中間酸化物が,c(4 × 2)ダブルドメイン構造という特殊な原子配列で並んだときにその仕事関数が低下すると報告されている。
 本研究では,まず ZrO/W(100)よりも高性能な陰極の作製を目指し,W(100)面を修飾する複合体を Zr-Oの組み合わせから他の組み合わせに変えることを試みた。新しい材料は複合体の作り出す電気双極子モーメントの強さを考慮して選んだ。実際に,修飾材料を Zrから Yに代えてYO/W(100)針状陰極を作製し特性を評価したところ,2.0eVというさらに低い仕事関数を得ることができた。さらに,この YO/W(100)表面を W(100)単結晶平板上に形成し,X線光電子分光(XPS)と低速電子線回折 (LEED)を用いて組成と原子配列を調査した。その結果,Zr-OのようなYと Oが1:1のペアになった複合体は観察されず,Y酸化物 Y 2O3が p(2 × 1)ダブルドメイン構造という原子配列に並んだときにその仕事関数が低下することが分かった。
 さらに,修飾物質を変えプラセオジム酸化物で修飾した PrO/W(100)面とプラセオジムメタルのみで修飾した Pr/W(100)面についても XPSと LEEDで分析を行った。その結果,PrO/W(100)面については Pr-O複合体は確認できず,表面の原子配列も特定の構造をとらないことが分かった。また Pr/W(100)面については c(2 × 2)構造が現れ,PrO/W(100)面よりも仕事関数が低下することが分かった。
 以上の結果は,ZrO/W(100)の場合とは全く異なっている。これまで Zr-O以外にも W(100)面の仕事関数を低下させる金属-酸素の組み合わせは報告されていたが,Z-Oのような金属と酸素が 1:1でペアになった複合体によって引き起こされると仮定されてきた。ところが,本研究から,全てが ZrO/W(100)のようなモデルでは説明できないことが分かった。これは新しい知見であり,修飾材料によってそのモデルを考えなければならないことが示唆された。

論文審査結果の要旨

  電界電子放出現象は現在まで産業や研究に広く用いられ,走査型電子顕微鏡 (SEM)や,半導体産業において使われる電子ビーム描画装置などは,研究や産業において欠くことのできない装置である。電子放出は陰極の性能によるところが大きく,電子ビームを扱う装置の性能向上は陰極の性能向上に依存している。
 現用されている陰極としては,針状に加工したタングステンの先端の (100)面をジルコニウムと酸素で修飾した ZrO/W(100)陰極がある。W(100)清浄面の仕事関数は 4.6eVと比較的高いが,その表面を Zrと Oで修飾し ZrO/W(100)面を形成すると仕事関数が 2.7eVまで低下する現象があり,ZrO/W(100)陰極はこの現象を用いたものである。仕事関数が低いと陰極から引き出すことができる電流量が増え,陰極の高輝度化に繋がる。W(100)面を Zrと Oで修飾するときの仕事関数の低下のメカニズムについては完全には解明されていない。しかし,その表面の組成と原子配列の観点から研究が進められており,W(100)面上に Zr-O複合体と呼ばれる中間酸化物が,c(4× 2)ダブルドメイン構造という特殊な原子配列で並んだときにその仕事関数が低下すると報告されている。
 本研究者は,ZrO/W(100)よりも高性能な陰極を目指し,W(100)面を修飾する複合体を Zr-Oの組み合わせから他の組み合わせに変えることを試みた。新しい材料は複合体の作り出す電気双極子モーメントの強さを考慮して選んだ。実際に,修飾材料を Zrから Yに代えて YO/W(100)針状陰極を作製し特性を評価したところ,2.0eVというさらに低い仕事関数を得た。この YO/W(100)表面を W(100)単結晶平板上に形成し,X線光電子分光 (XPS)と低速電子線回折 (LEED)を用いて組成と原子配列を調べた。その結果,Zr-Oのような Yと Oが1:1のペアになった複合体は観察されず,Y酸化物 Y 2O3が p(2 × 1)ダブルドメイン構造という原子配列に並んだときにその仕事関数が低下するという知見を得た。
 さらに,修飾物質を変えプラセオジム酸化物で修飾した PrO/W(100)面とプラセオジムメタルのみで修飾した Pr/W(100)面についても XPSと LEEDで分析を行った。その結果,PrO/W(100)面については Pr-O複合体は確認できず,表面の原子配列も特定の構造をとらないという結果を得た。また Pr/W(100)面については c(2 × 2)構造が現れ,PrO/W(100)面よりも仕事関数が低下するという知見を得た。
 このような結果は,ZrO/W(100)の場合とは異なっている。これまで,Z-Oのような金属と酸素が1:1でペアになった複合体によって引き起こされると仮定されてきた。本研究者は,ZrO/W(100)のようなモデルでは説明できないことを新しい知見として得,修飾材料によってそのモデルを考えなければならないことを示した。これは工学的に新しい知見であり,工学博士の学位に値するものである。